昭和五十六年一月二十七日 朝の御理解


御理解第八十九節
 此の方の道は傘一本で開く事が出来る


 信心をして一日喜びの生活、それはそのまま安心の生活という事だと思うです。信心生活とは喜びの生活、すべての事柄、すべての物に神恩報謝の心を持つ。心から神恩報謝の心が頂けるという事が心に安らぎ安心を頂かなければ、心からのお礼になってまいりません。不安で不安で足らん、心配で足らん、苦しゅうて足らんという中から、いわば神恩報謝の心というしんからのいうならば真に有難しと思う心が生まれてまいりません。
 だから信心させて頂いて天地の道理を分からしてもらい天地の御恩徳を感じさせて頂くおかげを頂いて、そしてこの神様の願である所の、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰せられる信心を身につけていけるという事、もう兎に角合楽なら合楽に御神縁を頂いたという事が何というても有難い事である。皆さんがお唱えになっている祈念詞の中にもそれがあります。御縁を頂いたと云う事が有難い。そこからいよいよ御縁を生かしていく、どういうふうに生かしていくかというと喜びの生活が出来るように、日々安心のおかげが頂けるようにね、そこに私はいよいよ広がりに広がっていく親の代より子の代、孫の代と広がっていくような道が自ずとついてくる。此の方の道は傘一本で開く事が出来るという傘とはそういうような事だと思うです。
 喜びの生活、安心の生活、それは不安がある、心配がある、難儀を感じておる、だからまあ信心するわけですけれどもそういう心配とか不安とかいったものが信心が分かってくればくる程、心配せんでもよい事に取り越し苦労をしておるような心配が沢山あるという事、悩まんでも苦しまんでもよい事に苦しんでおるという事。いやその悩むから苦しむから不平不足を云うからその難儀が尽きないという道理を知らない事。此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと仰せられておるのに、その喜びを喜びとしない。喜ばねばならない事にでも不平不足を云う事になるんです。たしかにそう傘一本を頂くためにお道の信心はあると云うてもいいわけです。
 だからねえ、そこに私はうまず弛まずの信心の稽古があるんだと、本気で稽古をするという気になる信心が身についていく喜び楽しみというものが頂けて信心が楽しゆう出けるようになるのです。昨日研修の前でした梶原先生がお届けに出てまいりました。今朝方からまあ、有り難いやら有り難くないやら分からんようなお夢を頂いたというわけなんです。沢山の鯉が泉水に泳いでおる。所が又新たな所から別な鯉をこれに移しておる、所がどうしたはずみにかその泉水の中に自分が落ちこんでしもうた。そしたら、今度はその鯉達が自分を食べておるというお夢であったというのです。鯉のおしらせと云いや、まあここでは、お徳と云われる。しかも昨日、研修の時申しました事でしたけれども、合楽で御神徳を受けんなら、こげん馬鹿らしかこつはなかばいて私は申しました。
 それこそ鯉の掴み取りが出けるような状態に合楽の教会はあるんだ。皆さんが本気でお徳を受けようと思えば、その鯉を頂く事の出けれる受ける事の出けれる手立てがこんなにも容易く説かれてある、それを行じないならばこげな馬鹿らしかこつはなかばい。たあだ合楽に参っておかげ頂いた病気が治った道が開けたという事だけではね、こげん馬鹿らしかこつはないよと云うて話した事でした。ただ見ておるだけ、もうそれこそ掴み取りが出けるような鯉がおるのにもかかわらずそれを頂こうともしない。だけではない落ちこんでそん鯉から食べられちしまいよる。
 ねえ、だからその鯉というか徳というそれがそのまま私は傘だと思います。徳の無い間は心配をする徳を受ければ心配はないとおっしゃる。それは日々の事にいうなら徳を受けておる人、徳を受けてない人の日々というものがそんなに変わりがあるはずはない同じ事なんだ、それを徳のない人は不幸を云い不足を云い心配をし、それこそ有難涙で受けられるような事を嘆きの涙で受けておると云うような事なのです。徳を受けとる人だから、受けてないからと云うてさほどに変らん。それを徳を受けておる人は徳を受ければ心配はないと、心配をせんだけではないお礼の心喜びの心が一ぱい、その喜びの心にいやが上にも人間の幸せのいうなら条件が足うてくる。そういう仕組みになっているんだ天地の中には中というものは、だからいうなら天地の心を分からしてもらはなければ、いわば驚かんでいい所に驚いたり心配せんでよい所に心配をしたりしなければならない。
 そしてこの世は苦の世だ、苦の世界だにしてしもうて一生を果ててしまはなきぁならない。本当に今日もおかげを頂いて有難うございましたと、毎日お礼の日々が出けなければならないのに不安であったり心配であったり、結局自分が徳を受ける事の精進、本気で徳を受けよう、それによって磨かせてもらおう。それによって改まらして頂くという信心をいよいよ身につけて心に安らぎを頂き限りない喜びに触れさせて頂く。もうそこにはおかげが集まらんならんように仕組みが出けているんだ。そういう天地には仕組みがあるのだそれを教祖様は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられる。いよいよ喜び、いよいよ安心のおかげを頂かなければならない。そこでこう申しますと、いと簡単な感じですけれども、そこにいうならば改まりがあり修行、いうならば改まりの修行があり、まあここで云われます人間が人間らしゅう生きる生き方、今朝から『蟹のおしらせと海老のおしらせを頂いた。甲こうの物ばかり。蟹はあれは蟹の横這いというて横に這うて行きますよね。蟹は真直ぐこうこうやって歩くならそれこそ奇怪千番である。蟹はこうこうやって横に這うていくのがあたり前でね。
 だからそこの横に這うておる事を自分は横這いしよる自分は間違っておる自分のような生き方ではいけないというふうに思うておって生き方をそれは蟹が横に這うのがまともであるように人間だからそれは当然の事だよ。その事はむしろお礼を申し上げなければならない事だよと、いうならば今まで間違っておった道と思うておる生き方の人に対して、その事に対してお礼、いやすべての事に御の字をつける生き方、頂き方、人間の事であるからどこにお粗末やら御無礼があるやら分からない。まあたしかに横這いに違いはないけれども、横這いそのものが人間らしい生き方なんだというふうに合楽では説くわけです。その蟹のね足が一本一本取れていく所を頂いたんです。
 だからその横這いにでも這えなくなったらもうおしまいだという事です。人間が人間らしゅう生きると云う事がそういう生き方すらも出けなくなっていくような事になってはならんから云うならば海老の修行がいるんだという事。苦しい思い、窮屈な思いをまあ私共は苦労といわずに修行という。又それを修行として頭ん中に入れておかなければならない。その頭ん中に入れ、頭ん中に分かった修行をならこれを修行と実際の上にその修行として表していかなければならない。苦労で表してはいけない。私はその海老のおしらせを頂いてからあの海老の生きている海老ではなくてあのもう煮付けてあってこうやって頭と胴を引っ張ったら頭ん所にみその様なのが一緒に出てきた所を頂いたんです。ですからその身のとこだけじぁなくて、その頭んそこん所が大体「みそ」ん所が美味しいんだと、だから自分の信心させて頂いて自分でこげなことじぁいけん、こういう修行させて頂いたらおかげ頂くこつは分っとるけれども、という頭に感じた修行が身をもって行われる時、もう必ず神が修行として受けるという意味に頂いたんです。たとえば、朝参りなら朝参りすりぁおかげ頂く事は分っとるばってんとか頭で思うとるでしょう。
 だからそれを実際にです実行、実験する時にです、必ず実証が生まれてくる、それは神様が修行として受けて下さるからだと。こういう修行すりぁおかげ頂くと分かりながら分っちぁおれども実行しない所におかげが頂けないという意味の事を頂いた。まあ蟹と海老のおしらせの中からそういうような、だからそういう信心がたとえばこう、誰の真似じぁない自分自身の各々での所でのいうならば頭で感ずるこの次にはこげな修行するとおかげ頂くじぁろうとこう思うたらです、それを1つ本気で実験することなんだと。それを本気で修行に表していく事なんだ。そこから、いうならば合楽で云われる人間が人間らしゅう生きる本当の生き方というものが分かってくるんだ。
 その修行なしに、こりぁ人間じぁからこん位なこつは当たり前、ここに御の字をと例えば御の字さえ付ければよいという生き方じぁなく、そういう修行がとものうての海老というなら蟹である。そこから生まれてくるのがです、信心の喜びであり、心の安らぎであり又はそれが安心という所まで高めていく事が出けるそういう心の状態が出けて来た時に傘一本で開けるという事は今日皆さんに聞いて頂いたような内容をもって傘一本というのである。傘一本で開く事が出ける信心をすれば誰でも受けられる。信心をすればという、拝みさえすれば、参りさえすればではない。その拝むとか、参るとかいう事ん中に合楽ではいうならばこうして日々の御理解が聞かしてもろうて頭で分かるのである。はあそんなもん、そんな道理のもんだなあと、だからそれをなら行じていくという生き方、そこから人間が人間らしゅう生きる蟹が横這いしておるとか横這いでなくてそれが当然だあたり前だというような事が分かって一切の事に御の字が付けられるといったような信心。昨日研修の時にあのう、梶原政昭先生の方が発表する前に私は今日御理解を頂いてこんな事を感じたというて話しているんです。いわゆる泉尾と合楽のを対象にしながら昨日の御理解でしたよね。泉尾の先生の場合は最高に人情をもって御信心をなさっておる合楽の場合は神情一本で親先生が進まれる。
 そして結論としてのおかげという点ではだから同じような感じである。私はそれを聞かして頂きながら、ははあ、泉尾との交流はこの辺りにあるなあと思うたんです。神情と人情とが一つになる。コントロール出ける。しかもなら泉尾でいわれる世界万国にいうなら信心のおかげを表さして頂こうという願いが先生の実働という事になってそれこそあのお年で世界中をかけ廻っておられるというような実働で、それはどこまでも神様の情ではなくて先生の情、人情である。人情そのものが神様の心にぴったり、適うておる、ねえ。
 だから、おかげになるのだと。
 これを厳密に言うとね少し人情だけではくい違いがある所が出てきますけどね、そういう意味あいで合楽の場合は小から中から大とこうお育て頂いて大きくなっていきよるけれども、そこにはもう間違いのないきちっとした答えが出ていきよるでしょうが、神情の場合ですから、合楽の場合は、ね それがね泉尾の場合にあ、あの時々ではないなあ、はあ成る程人情と神情はこの辺りがやっぱ違うんだなあ、それでも人間生きとる以上やっぱり人情も使いますからその最高の人情が合楽で使えるようになった時にそれと合楽の信心とがこう一緒にコントロールされた時にもっとすばらしい合楽のいうならば御比礼という事になるのじぁないかというたような事をまあ感じたんですけれどもね、合楽の場合はね例えばお広前が広うなったら広うなった時にあもうすでにそこにいっぱいでしょう。こりあ一事が万事にそうです合楽の場合は、受け物が出けた、これは神情で出けたんだからもう出けた時にあ、そこが一ぱいになっておる。
 いうならば少しきばって大きくしようといったようなものではなくて、神ながらに大きくなっていっておるのであるから大きくなったら大きくなったで神乍らなおかげが受けられる。これなんかはいよいよ傘一本で開く事が出来るというその傘一本によっての合楽の場合は道開きだからだと思うんです。まあこれは又少し説明せんと皆さん分からないと思いますけれども兎に角傘一本で開ける道という傘一本は信心の喜びであると同時に心の安らぎなんだ。
 そして信心のない時にぁ、いはば徳のない時には心配はせんでよい事に心配をし不平不足を云うてはならない所にむしろお礼を云わねばならない事に不平不足を云う。
 だから不足不足を云わねばならないような心配をするから心配せんならんような事がおきてくるのである。これを喜び一つで受けていく手立てが合楽では解かれるのですから、こんな難儀な事と思うておったけれども、それが神愛であったと例えばこれは分かっただけじぁなくて、いわゆる修行が伴っていきよるとそれが実感として神愛として頂くことが出ける、それが有難いで受けうれるから有難いおかげが伴ってくるのである。これをいよいよ確かな傘一本にしていく、確かな心の安らぎに、心の喜びに、確かなものにしていけばいく程に、だから、おかげが受けられるという事が分かります。
 いうならば合楽ではお徳を受けようと思えば今云うようにそれこそお徳の掴み取りというように容易う頂けれる状態下にあるのが今日の合楽である。本気で頂こうとすれば頂ける。そのいうならお徳の中に浸っておりながら落ちこんで鯉から食べられておるといったような事ではいうならばおかげになりません。どうした心の油断と申しましょうかね、落ちこむような事があってはその鯉からいうならば食べられなきぁならん。これは過去三十年の合楽の信心をずうっとふり返ってみると成る程こんなふうで食べられた人達がやっぱりあるなあという事を思います。いよいよそのお徳を頂くそれが私はここでは傘一本と説かれてあるなるほどお徳一つで総てを創っていけれる。おかげの頂いていけれる道が開けるという事でございます。此の方の道とおっしゃるのは、もう此の方の道はお徳を頂く道なんです。私は教祖様のお教えの総てがお徳を頂く道を説かれてあるというふうに思います。
         どうぞ